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ITと音楽の狭間

Diary

2011.3.11 あの時からの24時間

投稿日:2016年3月11日 更新日:

2011.3.11

大震災発生の直前。前職のオフィス(6Fだった)にいました。

突然みんなの持つ携帯電話が鳴り響き(緊急地震速報)、ほどなくして猛烈な勢いでビルそのものが揺れまくりました。机に積まれた書類は激しく揺さぶられて散乱し、棚にあったPCのディスプレイは転げ落ち、机と椅子も激しくズレまくる中、いつまでもいつまでも止まない(それどころかより一層大きくなる)激しい揺れに、このままもしかして自分は死んでしまうのではないか、と急に怖くなったのを今でも思い出します。

揺れている最中に電気が切れたんですが、ブレーカーが落ちた時のような切れ方ではなく、ゆっくりと消えていくあの感じは、実際にそうなのかはわかりません(脳内でそういう補正がかかっているかもしれません)が、いまでも夢に見る光景です。

ようやく揺れがおさまった時には、周りのあまりの散乱っぷりに、ただただ呆然となってしまいました。
安否の確認(幸い、けが人はいませんでした)、避難指示も出ましたので、6Fから階段を降りてビル向かいの駐車場に集合するのですが、当然余震が激しく、ビルがこのまま倒壊してしまうかもしれない、という恐怖をぐっと飲み込んで、駐車場へ向かいました。

3月の盛岡はさすがに寒いわけですが、状況が状況なので寒いというよりも恐怖で足が震えており、駐車場に集まっても激しい余震でビルの窓ガラスが音を立ててビリビリ震える様子は、その恐怖に拍車をかけました。
携帯がまだ繋がるようだったので、妻に電話。息子ともども自宅におり、ふたりとも無事であることは確認しましたし、妻の実家も問題ないようでした。

ここまでがだいたい15:00ちょうどくらいだったと記憶しています。

同僚が携帯のワンセグ機能でテレビを見始めたのですが、「大きな地震」がきたことと、「津波警報が出ている」という情報くらいしかわかりません。(15:00頃だと本当に情報が錯綜していた)
津波、というキーワードで、慌てて実家に電話をしてみたのですが、もうこの時間帯になると混雑していて全く電話が繋がりませんでした。今にして思えば、まだ津波がくる前だったので、ここで母親と話ができている可能性もあったんですよね。ここで話ができていれば、自宅にこの時間帯も居た事がわかるため、もしかして海の方に行っていないか、とかの心配をする必要は少しは薄れて、この後の数日間は落ち着いていられた気はします。まぁ言っても仕方のないことではあります。

その後、私自身は職場のサーバルームに移動して、状況の確認などの作業に入るわけです。もともとサーバルームはいろいろ隔離されてる状態ですから、なんの情報も入ってこない状態の中で、黙々と作業をするというのは、苦痛でしかありませんでした。

サーバルームを適度に抜けだし、当時から利用していたTwitterを確認するおかげで、なんとなくですが日本が大変な状況になっているということだけは分かってきました。(この時点ですでに「エレベーターに閉じ込められた」系のデマツイートが流れだしているわけですが、まぁその後に比べれば可愛いものです)

そして、どうやら津波がヤバイ、と。
沿岸地域に大きな津波が来ているらしい、と。
テレビでも津波の映像が流れているぞ、と。
仙台がヤバイらしい、と。
原発も爆発してるらしい、と。

 

文字の情報だけが羅列されていく中、不安だけが募ります。
大船渡の実家は大丈夫か。
友人知人は大丈夫か。
妻の親戚は大丈夫か(陸前高田とか大槌とか山田町とか)。
沿岸地区には音楽仲間がたくさんいるわけで、とにかく不安。
それでも沿岸がどういう状況なのかがさっぱりわかりません。

日が沈み、社用車で帰宅することを許された(サーバ運用とかやってましたから何かあればすぐ車で出社できるように)ので、ラジオをつけながら帰路。
ところが電気が止まっているもんで、真っ暗なんですよ、本当に。
信号もつかないし、街灯もつかない。
銀行のATMの一部が明かりがついていたのと、コンビニの前で懐中電灯片手に何かを売っている(そして買っている)人たちが見えた程度。
そんな状況ですが車はもうずっと並んでしまってるわけです。
なかなか先に進まない。
それでも、誰も怒るでもなく、交差点ではお互い譲り合いながら、極めて冷静な様子で車は少しずつ進んで行きます。
あとになってみればそれは驚くべきことな気もするのですが、その時は運転していた私自身もそれが当然であるような、そんな感覚でした。

ラジオの地元ニュースを聞きながら(社用車なのでAMしか入らない)とにかく情報を、と思うのですが、全く情報がありません。
内陸部の家屋倒壊な話と、老人ホームが無事である、という情報ばかり。
いや、それだって必要な情報なのですが、とにかく沿岸部の情報が全く入ってこないのです。
津波がどのくらいの規模だったとか被害がどうだったとか、そういうのが全くない。
携帯電話を使って大船渡の母に電話してみるのですが、これまたまったく繋がりません。
しかも電話そのものが「大変混雑して・・・」という状態なもので、携帯のメールですら受信してるんだかしてないんだかもわからない状態でした。
(実際携帯メールはかなり遅延が発生しておりまして、翌日になってからメールが届いたりするような状況でした)

妻が実家にきていたので、私も妻の実家へ向かいました。
とりあえず妻の実家ではローソクや懐中電灯で過ごしておりまして、軽く食事をみんなでとりました(何を食べたか全く覚えていないです)。
そこでワンセグを使ってちょっとだけテレビを見る(これまた電波が入りにくくてあんまり見られない)のですが、荒い画面から「ものすごい津波」という情報だけは聞き取れまして、より一層不安になりました。

着替えのこともあるから、ということで私と妻子は自宅に帰ることにして、帰宅したわけですが、そこで広島の友人と連絡が取れまして。
彼は私たちのために泣いてくれて、私自身は「そんな大げさな」と笑って会話してたのですが、切ってからあまりの嬉しさに涙が溢れてきたのを思い出します。

早めに寝よう、ということで、パジャマには着替えず、親子3人で固まって寝ることにしました。
その時私の手元にはiPad 3G(初代ですね)がありまして。
まだガラケーが主流だった中で、通話以外の通信としてTwitterをiPadでやっていた私でしたので、Twitterでとにかく情報を拾い集めました。
妻子にあとで聞くと、私が夜iPadを開いていたおかげで、画面の明るさが部屋を照らしてくれて安心したのと、私が情報を口頭で伝えていたことで、「分からないという怖さ」が軽減された、ということでした。

しかし、私自身はTwitterの投稿を読む度に、絶望しか湧いてきませんでした・・・「気仙沼が火の海」という情報を見たからです。
大船渡や陸前高田は、県は違えど目と鼻の先の土地です。
そこが「火の海」ということは、沿岸地区のどこもかしこも同じような状況になっている可能性が非常に高いことを示しています。

その不安と合わせるように、大きな余震は何度も何度も続きました。
揺れる度に悲鳴をあげる息子の上に覆いかぶさって、大丈夫だよ、と優しく声をかけてあげることくらいしかできませんでした。

そんな中、会社の携帯が鳴り響き「今すぐ出社しろ」との指示が当時の上司からきます。
そのために社用車で帰宅もしていましたし、妻子にも「夜中に出社するように指示があったらすぐ移動しなくちゃいけないから」と伝えてはいましたが、この時ばかりはなんでこんな状況で会社に行かなくちゃいかんのだ、と怒りに打ち震えた(そして妻子は不安でたまらなかったらしい・・・ってそりゃそうですよね)のでした。

そうして、結局出社しまして(道中はめちゃくちゃ怖かったですよ・・・信号も街灯もないわけですから)、翌朝まで会社にいました。
その時の話は(辞めたとはいえ)さすがに書けないのですが、それでもサーバルームは電気がありましたので、比較的安心していました。

翌朝、会社ではサーバルームの電源設備から引いてきた電源で、テレビがついていました。
そこに現れたのは、いくつかの建物を残して、無残な状態になっている、陸前高田市の映像でした。
「陸前高田市は壊滅状態です」アナウンサーの声に、目の前が真っ暗になりました。

とりあえず仕事の方は落ち着いた(ちょっといろいろ書けないことがおおいので職場の話はこの程度で許してください)ので、帰宅することにしまして。
途中で「中三」という百貨店の前で、食料品(火を使わずに食べられるもの)をワゴンで売っていたので、いくつか購入して帰りました(この時買っておいたものは、あとでとても助かるのですが、それはまた別の話)。

震災の翌日は盛岡も比較的暖かい日で、自宅に帰って親子三人、日の当たる部屋で過ごしたのですが、日が落ちるとやはり不安になってきて(気温も下がる)、食事のことやら風呂のことなんかも心配になってきました。
不安に輪をかけたのは、水道水でした。
水道水の出が、どんどん悪くなってきたんです。
浄水場からの水の供給量が減ってきたのでしょう。
もしかして水も来なくなるのか?というのは、とてもとても不安でした。

そして携帯電話も入りにくくなってきます。
携帯の基地局の蓄電池が減ってしまって、使えなくなった基地局が増えてきたためなのでしょう、窓際に行って電波を拾う作業をしながら、メールのチェックや電話の待受などを行っていたのです。

気付けば、震災発生から24時間を過ぎていました。今にして思えば、わずか24時間なのに、先行きが見えない怖さ、普段何気なく使えていたものがどんどん使えなくなっていく怖さ、そうしたことの積み重ねによって、この24時間がとてもとても長い時間のように思われました。

夜になり。
突然玄関の扉がノックされました。誰か来た????と思って見てみたら、なんと職場の後輩でした。

「市内の方は電気が復旧しはじめました。仕事の方でもいろいろ復旧が可能になったので出社してほしいとのことで電話したのですが、つながらなかったので迎えにきました」

電気が復旧!!!!!
仕事で呼ばれることへの怒りなんてどこへやら、復旧というその言葉だけでもう嬉しくてたまらず、比較的市内に近い妻の実家に妻子をお願いすることとして、私は迎えにきた後輩の車で職場へ向かうことにしました。

・・・街が近くなるに連れて、灯りが見えてきます。街灯の灯り、信号、家々の窓から見える灯りが、こんなにも明るいものだったんだなぁ、とたった24時間電気がなかっただけなのに、懐かしさすら覚える不思議な感覚だったのを覚えています。

その後、盛岡市内は電気が復旧し、テレビなども見られるようになって、ようやく被害の状況などを知ることができるようになり、実家の母から無事だという連絡がその数日後にやってきて、同時に友人知人の訃報をたくさん耳にすることになります。

 

 

あれから5年ですか。

あの震災発生から24時間を思い出して書いてみました。
推敲もせずに、書きなぐったものをそのままアップしちゃいます。
いろいろ忘れていることもありますし、思い出してみてもここにはどうしても書けなかった(書きたくなかった)こともいくつかあります。

ちょっとだけ書くと、職場で迎えた2日目の朝に、関西の業者から岩手県内の某スーパーの発注データが受信できないんだけどなんで受信できないの?なんか地震あったみたいなんだけど、いつなら受信できるの?という電話があって、怒りを抑えるのに必死だった、ということがありました。

それだけでなく他にもいろいろ。あーくそ今思い出しても腹が立つ。

 

それでも、自分自身の記憶を風化させないためにも、ここにあえて書いてみました。
この24時間を思い出すのだって、割りと勇気のいることだったりするんですよね。5年も経つのに。

また、上記の中ではTwitterでの情報収集のことしか書いていませんが、たくさんのリプライがあったこともここに書かせていただきます。あの時たくさんの方々にご心配いただき、たくさんの方々のあたたかい声に励まされました。

こうして振り返ってみて、発生してからの24時間以上に、発生してからの1週間は長く、そして1ヶ月は長かったなぁ、と。
書きながら思い出しちゃいました。本当にいろんなことがあって、夏には転職して東京に出てきているわけで、あらゆる意味で人生はこの大震災で変わったなぁ、と。いい意味でも悪い意味でも。

 

 

ここで書いた内容は、個人的な体験にもとづくものです。

もっと辛い思いをされた方、そして今でも辛い思いが続いている方、そもそもこうした体験を語ることすらできぬままに命を失った方、様々いらっしゃいます。
そうした方々の思いを私が語ることはできません。
震災に関して私が語れるのは、私自身の体験のみ、です。これはTwitterを使って当時被災地の情報を少しでも発信しよう、としていた時期から変わらぬ姿勢です。私自身が体験した話、見聞きした話だけを書くように心がけています。(想像だけで津波で被災の方々の思いは書けませんから・・・)

 

2016/03/11。

今年の3.11も、あの時とおなじ金曜日なんですね。

地震のあったあの時間、津波が到達したあの時間。

5年前のあの瞬間を思い出して、そっと祈りを捧げたいと思っております。

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岩手県出身のアマボエ(アマチュアオーボエ)奏者 ときどき 棒振りになったりする40代♂
震災後に転職、単身東京(妻子は盛岡に残してた)だったんだけど一時的に盛岡に戻ってきてたり。IT業界の混沌とした流れに身を任せつつ、仕事と趣味の狭間にあるものを書き留めていくとかそんな感じ。
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